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上手さとは その2

なんかどうもこのところ、本当に上手いとは、みたいな疑問に関わることばっかり書いているな、とふと気づいた。 お前はどうなんだよ、と言われると言い返せない。ぐむむ。 なので、僕の思うウヤムヤを書き連ねるより、偶然にも最近読んだ言葉たちを紹介したい。 パブロ・カザルス(スペインのチェロの名手ね) 私はいつもテクニックを手段と見做してきた。それ自体を目的とすることはしなかった。もちろん、テクニックに熟達することは必要である。と同時に、そのとりこになってはならない。テクニックの目的は音楽の内面的な意味の、そのメッセージの、伝達にあることを理解しなければならない。 もっとも完璧なテクニックとは、人に全然それと気づかせないテクニックだ。 カザルスの言葉にはぐうの音もでない。 逆に。 いい音楽家になりたかったら、旅をしろ、恋をしろ、などということはよく言われるが、これは「テクニック」と対になる要素だと思う。 そういう意味で、この言葉も重かった。 岡本太郎 人生全体が終わりのない冒険であるはずだ。それを一定の目的だけに限定して、あたかも事件のように冒険が行われたりする。つまり、いわゆる冒険の前提には何か甘えがある。~中略~「冒険」では実は己自身も、社会の運命も、小ゆるぎもしない。そういう安定した社会、生活、ふだんの土台に、いつでも戻ってきて心身を休められる。それを期待し、頼りながら、ただ一時期、羽目をはずしてみるだけ。全体的、全運命的責任はとらないのである。 だから、冒険が終わればまた非常にむなしくなる。 偶然、縁があったり、タイミングやお金の都合が上手くいって、旅に出られる人もいる。でも、生活や人間関係に縛られたり、何となく臆病で、地元すら離れられない人もある。 そういう人生が冒険じゃないかというと、それは全然違って、やっぱり心の持ち方なんだなと思う。 あと、最後にもうひとつ大好きな言葉を。 これは音源のうろ覚えなので、細かい言い回しは違うかもだけど。 古今亭志ん朝 我々の社会でも、遊びを知らないってぇといい落語家になれないなんてぇますが、これもね、どうかなと思います。毎日遊んでて、落語がどんどんどんどん上達したら、こんなにいいことはないんですがね。 笑いながら、殴られたような気持ちになりますな。

カエルの歌

窓を開けると、涼しい風が入り込んできて、田んぼのカエルたちは、ケロリケロリと鳴いている。 唐突に誰かが鳴き出したかと思えば、大合唱になり、なにやらこちらにはわからないキッカケで一斉にしーんとなってしまう。 ふと会話が止まってシーンとなってしまうことを、「天使が通った」などと言うらしいが、カエルの世界にも天使はいるのだろうか。 何気なくTVをつけていると、タレントの武井壮が、どうやって十種競技で活躍するほどの運動神経を身に付けたか、という話をしていた。 とてもためになる話だった。 多くの人は自分の体を思い通りに動かしているように思っているけれど、実際はそうじゃない。 例えば、「水平に」両腕を広げ、それを鏡で見る。 自分は水平だと思い込んでいても、実際はちょっと上がっていたり下がっていたりするのに気がついていない。 体の動きの中にはそういったことがたくさんあり、そういう思い込みの上にいくら練習を重ねても効果が薄い、ということだった。 普通の人は、それに気が付かずに闇雲に反復練習を重ねるだけになってしまう。 という、ここのところがとても印象に残った。 なるほど、ミュージシャンにも同じことが言えるよな、と思い、自分がどのくらい歌の音程を正確にとれているかという実験をしてみた。 楽器で半音ずつ音を出しながら、チューナーを口の前に持ってきて計測してみる。 おお、意外と音が合っているように思いながら声を出していても、チューナーに通すと若干低い。 水平に腕を広げる話と同じだ。 音階によって、喉が正確に覚えている音もあれば、少し低めに覚えている音もあった。 低いのに、感覚的には合ってると思ってるんだ。 これは発見だった。 ボイトレ等を受けている人には、今更やってんの?と思われるかもしれないので、恥ずかしい告白でもあるのだが。 友人のギタリストも、ステージで最大のパフォーマンスを出すための講義みたいなものを受けに行って、緊張している時は、首の位置が普段冷静な時と違っている、と言われたと話していた。 それで、手の動きも上手くいかなくなっちゃうわけだね。 自分の体の動きをちゃんと把握するって大事だなと思う。 ところが音楽はスポーツではないので、必ずしも音程やリズムが正確ならいいわけではない。

It’s only a paper moon

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喫茶ペーパー・ムーンライブに来てくださった皆様、ありがとうございました! 大切な友人で、かつては両替町「aura」の店主だった、こーすけくんが新たに開いたお店。 場所はしかも移転したカフェCAPUの跡地。 今回改めて再確認したけれど、CAPUの頃からこの場所はほんとにいい雰囲気に包まれていて、イベントをすれば、ライブの出来不出来にかかわらず、なんだかとってもいいことになるんだな。 常に大団円してしまうというか…。 その“いいことになる”という感覚が、ペーパー・ムーンに替わってからもそのまま残っていた。 それはやはり、長く素晴らしいお店を続けてきた、こーすけくんのセンスだと思う。 僕の演奏はといえば、今回、僭越ながらも2回のアンコールをいただいてしまった。 わーっと盛り上がるバンドなどならまだしも、僕はわりといつも静かな雰囲気の演奏なので、そういうことは滅多にない。 アンコールをいただいてまた出て行く瞬間というのは、今だにこっ恥ずかしく慣れないが、本当にありがたいと思う。 素敵なお客様と、お店の雰囲気に感謝します。

上手さとは

音楽の「上手さ」とは何だろうとよく考える。 あいつは上手いだけで個性がないね、などといわれて、上手い人は嫌われることすらある。 やっぱりそれは本当の上手さじゃなくて、ただ単に指が早く動くとか、たくさんの曲やフレーズを知っているとか、リズムや音程が正確だというだけなんだろう。 どこまで行っても全体的なことじゃないのだ。 僕はブラジルの音楽が好きで、聴いていると、何となく上手さということのヒントをもらえるような気がする。 歌の音程が甘かったり、リズムがガタガタしていたり、そんな音が恥ずかしげもなく陳列されているのに、名盤として讃えられていたりする。 (それは分析的に聴くと…の話であって、ブラジルの音楽家って全然下手くそじゃないんだよ。実際は上手くないとできない音楽。誤解のないよう。これは、商業音楽以前のワールド・ミュージック《もちろん日本の音楽も含めて》にも言えるんだが、商業音楽に片足を突っ込んでいてもなお、何かが残っているのがブラジルと僕は勝手に思っている。) でも、聴いているとそんなことは気にならなくなって、圧倒的な雰囲気に飲み込まれて陶酔してしまう。 僕の好きなこの曲もそうだ。 Artur Verocai - Caboclo https://www.youtube.com/watch?v=ZnC-XX70XWw よく聴くと歌なんか音程もフラットしてるし、ギターもチューニング狂ってんの?っていうぐらいなのに、なぜか逆にそれが気持ちいいとすら思える。 涙が出そうなぐらいにかっこいい。 この圧倒的な存在感は何だろう。 そこに本当の上手さの秘訣があるような気がする。

おとぎ話ツアーatスノドカフェ

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NolenNiu-de-Ossiとの「おとぎ話」はどうも本当に長い話になっていきそうで、自分でも予測不可能で非常に楽しんでいる。 6月のおとぎ話ツアー、スノドカフェ七間町に来てくださった皆様、ありがとうございました。 回を重ねるごとに濃厚になっていく、という表現は自己満足的に軽々しく使われる場合があるが、なかなか、本当に濃厚になっている実感のある、この企画なのです。 今回は、完全に生音のライブであった。 僕は、生音のライブが好きだ。 (音響を否定しているわけではないですよ。上手な音響に恵まれたときの心地良さは、また至福。) デオッシの音楽も、やっぱり音響を通さない生の音で聴くときが一番感動する。 今回のステージは、僕が今まで見た中では一番好きだったかもしれない。 楽器と声とのバランスが取りにくく、小さい音はより繊細に、力強い音は生々しく響く。 機械を使って増幅したときとは、また違った何かを音に乗せていかないと、ただ音が小さいだけ、になってしまう。 音響有りよりも、生でやるときのほうが何かを加えなければいけない…、という。 いや、というよりは、もともと演奏の中に有るべきものを、音響を使うときには引かなければならない、ということ。 ここがおもしろいところ。 で、そのもともと有るべきものってなに?というのは、非常に感覚的なもので、うまく文章にはできないのでございます。 オンコールで急きょ、デオッシのオリジナル「決めた」を3人で一緒に演奏した。 とても深くていい曲。 NolenNiu-de-Ossi 『決めた』 https://www.youtube.com/watch?v=bTDk99HTM7U うちの妻と子どももプロモのどこかにいるよ。 次回は我らがホーム、UHUにて。 7月8日の夜です。 ぜひチェックしてくださいね!

分断

自閉症などの障がいを持った人たちが、音や光や、“普段と違うこと”や、まわりの変化に非常に敏感なのは、科学的に意味があって、彼らは、本来的な人間存在の中では、人間のコミュニティが自然や人間以外の環境とどう付き合っていくか、を敏感に察知していくためのアンテナのような役割を持っていたのだ、という。 逆に、いわゆる健常者(と自分で勝手に言っているボクたち)は、どのように効率的に社会を回してゆくのか、を考える役割に特化している人たちなのだ。 今はなぜか、後者の力が強くなってしまって、本来ちゃんとした役割を持っていた人たちに「障がい」というレッテルを貼っているのだ。 …という研究がなされているという記事を読んだ。 なるほど、言い得て妙だなと思う。 「あのさー、環境のこととか、平和についてとか、一度でも考えたことあるの?」と質したくなる人は確かにいる。 先の話でいけば、そういう人は、自分に与えられた社会を回していくことに特化しているだけなのだということになる。 ここからは自分の推測の話だが、例えば、 ①環境からのメッセージを察知する人→②受け取ってシステムを作る人→④できたものを効率よく回す人→⑤結果を分析し後に伝える人 こんな役割が考えられる。 これが分断されて、お互いが理解できず蔑んでいるのが今の社会ではないだろうか。 そうやって考えると本来はもう一役、その違いをつなげていくための潤滑油のような役割をもった人が存在したはずだ。 「→」のところに存在する人たち。 それは、「本来の」音楽家とか芸術家などという人たちではないだろうか。 または人ではなく、それは「本来の」宗教や、信仰といったものではないだろうか。 だから!わたくしたちが頑張らねば、という話に持っていくのは、こじつけだと思って黙っているわけである。 しかし、あくまで「本来の」というところは強調したいポイントである。

別々の記憶

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特定の人種や思想を持った人を、差別したり、意味なく嫌ったりすることはいけない、と思う。 言うまでもなく当然のことだが。 ところが差別の種はそこかしこに潜んでいる。 昨今ニュースを賑わせた、障がい者施設などで起こる虐待もその片鱗だろう。 理解しがたいものを、自分の価値観を超えたところで想像力を働かせ、受け入れる。 または、こうあるべきだ、という手放しがたい自分の物差しを、手放す。 そういうことができる人は非常に少ない。 自分もできない場合のほうが多い。 もちろん僕は障がいを持った人に手を上げたことはないし、これからも決してしないだろう(口喧嘩は時々するけど…)。 しかし同じ福祉職員として、虐待に加担する人の気持ちは常に、疲労や不理解の裏、紙一重のところにある、と感じる瞬間がある。 これが恐ろしい。 そして、優位な、ある立場に回った者は、タガが外れるととことんやってしまうのだ。 しかも、それを間違っていると思えなくなってしまう。 ところで、僕には韓国人の親友がいる。 本当にやさしい人で、しかもユーモアがあり、彼以上の紳士を僕は日本人の中に知らない、というぐらいだ。 旅行がてら、韓国の彼の実家に遊びに行ったことがあった。 彼のお父さんは(今はもう亡くなったが)、流暢な日本語で僕を迎えてくれた。 どうしてそんなに日本語がお上手なんですか?とうっかり聞いてしまって、あっ、と返事が来る前に後悔したのだが、息子である彼は、「お前らが支配してたからだろうがよー。」と笑いながら言った。 彼のお父さんも別段怒ってもいなかったが、本当に申し訳なく思った。 当時はきっと辛い思いもされたことだろう。 これは、教科書が正しいかとか事実がどうかとか、そういう問題ではないんだ。 彼らには彼らの記憶があり、またその生活の中で違った面から日本という国を見ている。 その物差しを僕が持っていないだけだ。 的外れかもしれないが、今、日本だけでなく、横暴な右寄りの政治を推し進めているのは、どこか心に差別心を持つ人たちの力によるところは大きいだろうと思う。 その世界に知り合いもおらず、ニュースや、正しいかどうかもわからない知識だけで、あいつらは!と曰う人の浅はかさである。 彼に出会う前は、自分にも少しそういう

藪の中

すっかり夏めいてきて、少し歩いた川沿いでは、ホタルが少し切なげに夜を漂っている。 立葵の花が咲くと、ああ、また一年がたったなと思う。 自分としてはなぜか季節の移り変わりを感じる花だ。 今日は国会中継を見ていた。 本当に、つくづく、これからの日本はどうなってゆくんだろうと思う。 もちろん今に始まったことではないが、少なくとも安心してはいられない時代だ。 しかし、「安心して」人々が暮らしていた時代などなかっただろう、とも思う。 どちらかが嘘をついている。 最近そんなニュースばかりだ。 または両方とも嘘か、ウソとホントが入り混じってめちゃめちゃになっているか。 まさに「藪の中」である。 身近でも似たようなことがあった。 -こう言ってたらしいね? -いや、言ってないですよ。 -でも〇〇が△△だって君が言ってたと、Aさんから聞いたよ。 -いや、〇〇って単語すら使ってないと思います。 -え?そうなの? -□□が☓☓とは言ったかもしれないけど。 -うーん。 たかが友人同士の会話で、薮に入ってしまうのだから、たくさんの組織が入り混じっていればなおさら、である。 しかし、本当に信じるべきは何だろう、と思う。 本当であるか、嘘であるか、そんな無味乾燥なことが問題なのではない。 大事なのはムードなんだ。 最後には悪いやつらは改心し、愛する二人は無事添い遂げるという物語のムード。 どんな物語も、数が多い方がムーディだったことは一度もないのだった。 ぜんぜん真面目な話じゃなくなっちゃった。 ごめんなさい。 きれいごとでうまくいくなら誰も苦労はしないよね。 でもさ、きれいな世の中であって欲しいと切に思うよな。