別々の記憶

特定の人種や思想を持った人を、差別したり、意味なく嫌ったりすることはいけない、と思う。

言うまでもなく当然のことだが。

ところが差別の種はそこかしこに潜んでいる。

昨今ニュースを賑わせた、障がい者施設などで起こる虐待もその片鱗だろう。

理解しがたいものを、自分の価値観を超えたところで想像力を働かせ、受け入れる。
または、こうあるべきだ、という手放しがたい自分の物差しを、手放す。

そういうことができる人は非常に少ない。

自分もできない場合のほうが多い。

もちろん僕は障がいを持った人に手を上げたことはないし、これからも決してしないだろう(口喧嘩は時々するけど…)。

しかし同じ福祉職員として、虐待に加担する人の気持ちは常に、疲労や不理解の裏、紙一重のところにある、と感じる瞬間がある。

これが恐ろしい。

そして、優位な、ある立場に回った者は、タガが外れるととことんやってしまうのだ。
しかも、それを間違っていると思えなくなってしまう。


ところで、僕には韓国人の親友がいる。

本当にやさしい人で、しかもユーモアがあり、彼以上の紳士を僕は日本人の中に知らない、というぐらいだ。

旅行がてら、韓国の彼の実家に遊びに行ったことがあった。

彼のお父さんは(今はもう亡くなったが)、流暢な日本語で僕を迎えてくれた。

どうしてそんなに日本語がお上手なんですか?とうっかり聞いてしまって、あっ、と返事が来る前に後悔したのだが、息子である彼は、「お前らが支配してたからだろうがよー。」と笑いながら言った。

彼のお父さんも別段怒ってもいなかったが、本当に申し訳なく思った。

当時はきっと辛い思いもされたことだろう。


これは、教科書が正しいかとか事実がどうかとか、そういう問題ではないんだ。

彼らには彼らの記憶があり、またその生活の中で違った面から日本という国を見ている。
その物差しを僕が持っていないだけだ。

的外れかもしれないが、今、日本だけでなく、横暴な右寄りの政治を推し進めているのは、どこか心に差別心を持つ人たちの力によるところは大きいだろうと思う。

その世界に知り合いもおらず、ニュースや、正しいかどうかもわからない知識だけで、あいつらは!と曰う人の浅はかさである。

彼に出会う前は、自分にも少しそういうところがあったかもしれない。

もちろん、政治のやり方として、個人のあり方として、悪いところは悪い!と言わなければならないこともある。

誰かが書き間違えた本を読んだまま、終生理解し合えない人もきっといるだろう。

ところが、転んではいけない側が確かに存在する。
先に転ぶのは常に「ある立場に回った者」達なんだと思う。

そして、仲間たちの日常の疲労や他の世界に対する不理解の裏に、すっと甘い言葉を差し込んで、味方にしてしまう。

しかも、それを間違っていると思えなくなってしまうんだ。

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